2017.6.23

ブラナゴヤ!木村有作さんと城下町・本町筋界隈を歩く

名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員 木村有作さん

TEXT:TOSHIYUKI OTAKE / PHOTO:TOMOYA MIURA

「名古屋の町はここ、本町橋からスタートします」と木村さん。本町橋は明治42年竣工。石柱などは当時のままでクラシカルな意匠に“萌える”橋マニアも少なくないとか

「ブラナゴヤ」シリーズ第2弾! 名古屋城の次は、家康がお城と合わせて築いた城下町へ。家康がどんな狙いで町づくりを行ったのか?それは今の町並みにどんな風に残り、どう活かされているのか? 本町通界隈を歩きながら探っていきます。案内役は名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員の木村有作さん。タモリさんもハマった“リアルゆるキャラ”的な笑顔に癒されながらの街中探索、さぁスタートです!

町割を知ると城下町全体が分かる

木村さんと落ち合ったのは本町橋のたもと。名古屋の城下町を歩く場合、ここからスタートするのには大きな意味があるとのことです。

「本町橋の北詰の左右に石垣が残っていますが、これはもともと本町御門の石垣だったんです。これより北側は名古屋城の三の丸、すなわち城内。そして橋より南側が城下町。つまりここが武家のためのお城と町人が生活する城下町の境界線なんです」。

今回のルートの中心となるのは本町通。家康が城下町整備において町の中心にすえた、まさしく名古屋の町の元祖・メインストリートです。本町橋から望むと、南へ向かって通りがまっすぐ伸びています。この一直線の道こそが家康がこだわった“町割”の一番の特徴であり、町割を知ると名古屋がどんな城下町だったのかが分かるのだとか。そして、一区画の東西と南北それぞれの辺の長さを測ると、町割の形が分かると言います。

  • 橋の下の部分の堀は江戸時代にはなく瀬戸電を通すために掘られた
本町橋からまっすぐ南へ伸びる本町通は城下町のメインストリート

「その方法がこれです!」とスタスタ歩き出す木村さん。どこかで見たような光景・・・、そう『ブラタモリ』でタモリさんと一緒に歩いていた歩幅測定法! 「小学生の頃によくやったなぁ」と無条件に楽しくなって、「1、2・・・」と数えながら進んでいきます。

西から東へ160歩。一歩60㎝として約100m。90度曲がって南から北へと歩くとやっぱり160歩で約100m。つまり正方形の町割というわけです。

「名古屋の中心部は空襲で焼け野原になってしまいましたが、町割はほぼ江戸時代のまま残っています。東西11×南北9、合わせて99ブロックの美しい碁盤の目で町が作られているんです。碁盤の目の町割は他の都市でも見られますが、これほど大規模なところは他にありません」

  • 「98、99、100・・・」と歩数を数え、文字通り“自分の脚”で町割を確認する
  • 現在の丸の内界隈は江戸時代の町割がほぼそのまま残っている

この町割をさらに注意深く歩いていくと、ある特徴に気づきます。それは東西の通にも南北の通りにも、店や事務所の間口が並んでいるのです。名古屋よりも先に番組で取り上げられていた大阪の町割では、店は奥へと細長く東西の道に面してだけ路面店が並んでいました。なぜこんな違いがあるのでしょう?

「名古屋はひとつの区割りにできるだけたくさんの路面店を作り、にぎわいを生み出そうとしたんです。この方法だと同じ面積で大阪の1・4倍もの店が道路に面して店を営業できるんです」

いいことづくめのようですが、正方形で横にも縦にも店が並ぶ構造だと中心がぽっかり空いて無駄なスペースができてしまいます。ところが、これも家康の狙いのひとつだったのだと木村さんは言います。

「このようなスペースは“会所”(かいしょ)“閑所”(かんしょ)と呼ばれ、町の集会所などとして機能しました。名古屋はもともとお城があった清須から人口5万人の町ごと引っ越す“清須越”(きよすごし)によって作られました。家康は町人が商売しやすく、なおかつ地域の共同体も維持した住みやすい町を作ることで、人々の移住を促したんです」

  • 「正方形の町割が並び、東西の通りにも南北の通りにも商家の間口が並んでいた名古屋の城下町。中心にできる空間は“会所”“閑所”と呼ばれ、集会所などとして利用された。現在は駐車場などになっているところが多い
  • かつての閑所を活用したコインパーキング

名古屋を商業の町として発展させよう。そんな町づくりを推進した家康をタモリさんは“優れたディベロッパー(開発者)”と表現しました。さすが的を得ていて、家康の都市計画の先進性がよく分かります。

江戸中期になると閑所には寺院や神社ができ、やはり共同体の核の役割を担いました。現在も商店やビルの間に寺社が残っていたり、最近ではタワーパーキングになっているところも多いそうです。都会の中のエアポケットとも言うべき閑所は、家康の都市計画を今に伝える貴重なスペースなのです。

両口屋是清 本町店

尾張藩御用達の老舗・両口屋是清の和菓子で一服

ここでちょっとひと休み。「両口屋是清 本町店」へ立ち寄り、おやつを購入します。両口屋是清は江戸初期の寛永11(1634)年創業。尾張藩の御用菓子を務め、名古屋の町の発展とともに歩んできました。「私は名古屋生まれの名古屋育ちですから子どもの頃からここの千なりを食べて育ってきました」と木村さん。老舗の風格を守りながら庶民に親しまれているこの店のお菓子は、名古屋っ子にとってのソウルスイーツなのです。

  • 「両口屋是清本町店」。尾張藩御用達だった同店はこの地よりお城へ菓子を届けた
  • 茶会でも使われる上生菓子は和菓子の最高峰。1年二十四節気の暦に合わせて、季節感を先取りした菓子がほぼ二週間サイクルで入れ替わる
江戸時代の名古屋の町人もこんな風にお菓子で一服を楽しんでいたのかも

那古野神社 / 名古屋東照宮

かつては名古屋城内にあった那古野神社と東照宮

さて、ここからは番組ではふれられなかった木村さんがお薦めする史跡を中心に巡ります。

「まずは那古野(なごや)神社、名古屋東照宮です。どちらももともとは名古屋城内にありました。明治になって城が陸軍に接収されたのを機に、現在の場所に遷座されました。この場所は明倫堂跡といって、かつては尾張藩士の学校があった跡地です。那古野神社はかつては亀尾天王社の名称で、遷座した際に現在の名前に改称しています。亀尾天王社の天王祭、東照宮の東照宮祭は若宮祭と合わせて“名古屋三大祭”と呼ばれ、豪華絢爛な山車が曳き回されるそれはにぎやかな祭礼だったそうです。那古野神社は名古屋という町全体の氏神ですし、東照宮は家康ゆかりの神社だけあって社の周辺の灯籠などは有力な家臣が寄進したものが多く立派です。今では規模が小さくひっそりとした印象ですが、名古屋の歴史の中で非常に重要な神社なので是非多くの人にお参りしてもらいたいですね」

  • 那古野神社。「なごの」ではなく「なごや」と読む
  • 名古屋東照宮は那古野神社のすぐ西側。城内にあった時は敷地ははるかに広大だったが、那古野神社が東、東照宮が西という並び方は当時にならっているそう

桜天神社 / 福生院 / 聞安寺

閑所の中の寺社が伝える江戸時代の名古屋の風景

続いて本町通を南へ進み、桜通を渡ります。このあたりには繁華街・錦三の端に位置し、飲食店やオフィスビルがひしめき合うエリアですが、そんな中に桜天神社、福生院、聞安寺といった寺社が正方形のブロックの中に忽然と現れます。

「これらはまさに閑所に作られた寺や神社です。こういう場所が町の中心部に残っているのが碁盤割の町割ならではで、名古屋の面白いところと言えます。境内に入ってみると社やお堂はなかなか立派で、それがぐるりとビルに囲まれている風景が何だかタイムスリップしたような感覚で独特です」

  • ビルに囲まれた桜天神社。「かつてはここにあった万松寺の中の天神社でした。信長が父・信秀の仏前に抹香を投げつけたという有名な逸話の舞台は、実は大須ではなくここなんです」(木村さん)
  • 福生院は、繁華街の真ん中に突如現れる朱塗りの山門がインパクト抜群。「歓喜天を祀り、恋愛成就からボケ封じまで世俗的な現世利益何でもござれというのが、意外と土地柄に合っているのかも(笑)」(木村さん)
  • 聞安寺もビルに囲まれた閑所のお寺。山門、鐘楼、本堂以外はコンクリートでおおわれているのがストイックな雰囲気。「お寺によくみられる薬医門と呼ばれるタイプの門は非常にデラックスで、町並みの中で異彩を放っています」(木村さん)

朝日神社

旧地名でよみがえる城下町の景色

この日歩いた界隈は「丸の内」「錦」といった地名になっていますが、戦後間もなくまではかつて清州にあった町名の多くが使われていたそう。現在も旧町名は愛されていて、ところどころにそれらを示す案内板が見つかります。

「呉服町や七間町、伝馬町などは清須にあった町名で、現在は通りの名前として残っています。伝馬町という地名は全国各地にありますが、これは江戸時代の主要な交通・輸送手段だった馬が集まる伝馬役所があった場所。この伝馬町本町は飯田街道とつながる交通の要衝で、通周辺には宿場や商店も集まり、“城下町のへそ”ともいうべき商業地区として発展しました」

そんな中でも特にユニークな旧町名が「蒲焼町」。錦通にその名を記した小さな看板が掲げられています。

「かつてうなぎ屋がたくさんあったとする説、遊郭があり蒲焼ではなく香倍焼(こうばいやき)が町名だったとする説など諸説があります。昭和41年までは正式な町名だったのですが錦3丁目に編入されて消滅してしまいました。近年になって地元の有志たちが旧町名を見直そうとこのような看板を設置しています」

  • 伝馬通という名称は荷役の馬などがここに集まる交通の要衝だった証
  • 「蒲焼町」は現在の錦3丁目17~20のブロックにあたる。看板は旧町名の復活を目指す地元の有志たちによって設置された

ゴールは広小路通沿いの朝日神社。現在の繁華街のど真ん中に位置しながら境内は思いの外広く、木々が茂り、都心にいることを忘れさせてくれるような空間です。

「かつては清須の朝日村にあり、清須越で名古屋へ移された2つの神社のうちのひとつです。家康の正室、朝日姫の氏神で、城下町碁盤割の守護神です。鳥居の横にある透かし塀は不浄除けといわれ、江戸時代には向かい側に尾張藩の牢獄があったことから、罪人を神様の目から隠すために建てられたと伝えられています」

  • 都心のド真ん中にありながら緑豊かな朝日神社

碁盤割の城下町はこの広小路まで。今ではメインストリートである広小路ですが、城下町が築かれた当時は町の一番外れの通りだったのです。

「町全体が大きな遺構」という木村さん。戦災で歴史的建造物の多くが焼失してしまい、その分近代化が進められた名古屋の中心部ですが、城下町の碁盤割に沿って歩いてみると、なるほど貴重な史跡や歴史の痕跡が残っています。そして、それらに目を向けると、見慣れていたはずの町の景観がまったく違った景色に見えてきます。

城下町散策はここまでですが、さらに南には名古屋の経済発展にとって絶対に外せない場所があります。その場所とははたして・・・? 「ブラナゴヤ」シリーズ第3弾へ続きます!

PROFILE

Yusaku Kimura

名古屋市教育委員会文化財保護室学芸員。名古屋市生まれ。同支社大学大学院文学研究科修了。考古学専攻の学芸員として見晴台考古資料館で長く発掘調査に従事。他、名古屋市博物館、名古屋城、文化財保護室に勤務。95年頃から年2回、春秋に「歴史散歩」を企画し、ガイドを務める。著作に『なごやの古代遺跡を歩く』(服部哲也、纐纈茂と共著)がある。好きな名古屋めしは味噌煮込みうどん。