2017.7.7

ブラナゴヤ!山村亜希さんと熱田∼堀川まで尾張台地を南へ北へ

京都大学大学院 人間環境学研究科准教授 山村亜希さん

TEXT:TOSHIYUKI OTAKE / PHOTO:TOMOYA MIURA

「ブラナゴヤ」シリーズ第3弾! 前々回の名古屋城、前回の城下町からぐ~っと南へ下り、今回は熱田神宮とその界隈、そして再びぐぐ~っと北上し堀川は五条橋へ。尾張台地の“へり”から“へり”を行き来することで、家康がこの地に名古屋の町を築いた理由が明らかになるのだとか。ブラタモリで案内人として登場した地形から町の成り立ちをひもとく歴史地理学のスペシャリスト、京都大学の山村亜希さんと、古地図を手にその秘密に迫ります!

熱田神宮

家康より以前の古代から尾張は重要な場所だった!

愛知県立大学で11年間教鞭をとっていた山村亜希さん。熱田神宮とその周辺もくり返し足を運んだフィールドワークの場だと言います。鳥居の前で一礼をし、木々が生い茂る熱田の杜へ入っていくと、夏の初めにもかかわらずひんやりとした空気に包まれます。
「都市の中心部からさほど離れていない場所にこんなに大きな森に囲まれた神社がある。これは非常に貴重で、これだけで名古屋の大きな魅力と言えます」

6万坪もの敷地内に大樹が茂り、“熱田の杜(もり)”の呼称がふさわしい熱田神宮

熱田神宮は三種の神器のひとつ、草薙神剣をご神体として祀ります。
「日本武尊(ヤマトタケル)が東征のために立ち寄った尾張で宮簀媛命(ミヤスヒメ)をめとり、日本武尊の死後、宮簀媛命は草薙神剣を祀るために〝熱田〟に社地を選び定めました。この逸話からも大和朝廷(現在の奈良県とされる)にとって尾張の地は、東進の際の最前線だったことがうかがえます。家康よりもはるか昔の古代から、尾張は重要な場所だったと言えます。

熱田の古代から繁栄を証明する巨大古墳

熱田の地が古代から重要な場所だったことを証明する史跡が、熱田神宮のすぐ北側にあります。いったん境内の外へ出て、そちらへ向かいます。周囲には野球場などがあり市民の憩いの場となっていますが、ここには東海地方最大級の前方後円墳、断夫山古墳があるのです。

境内の名物きしめんで軽く腹ごしらえ

由緒正しき1900余年の歴史を持つ熱田神宮の本宮をしっかりお参り。さぁ、同シリーズの肝と言うべき台地のへりを目指す・・・その前にちょっと腹ごしらえ。熱田神宮に来たらついつい寄りたくなるのが宮きしめんです。正参道から少し脇に入ったところにあり、テント屋根を張った簡素な構えなので、周囲の自然との一体感も感じられます。

南の正門をくぐって神域の外へと出ます。境内を出てすぐの三叉路が最初のチェックポイントです。山村さんに促され、道路が伸びる方向をぐるりと見渡すと・・・。
「気づきましたか? 東、西、南の三方がゆるやかに下がっています。ここが尾張の台地の“へり”なんです」

南側の正門から境内の外へ出る
  • 左から西、南、東。三方ともゆるやかに下っている

名古屋城を北端とする尾張台地、その南の端に熱田神宮は位置するというわけです。北と南の“へり”を制覇したことで、名古屋は台地の上に築かれた都市であることが実感できます。

七里の渡し

台地の傾きから必要となった「七里の渡し」

国道を渡ってさらに南へ。すると四つ辻の角に石の道標が。江戸後期に建てられたかなり古いもので、それでも刻まれた文字がうっすらと残っていて何とか読み取れます。
「『東 江戸かいとう 北 なごや きそ道』、つまり東は江戸へ向かう東海道、北は名古屋や木曽への道です。しかし、東海道は西へは向かいません。『南 京 いせ 七里の渡し』、東海道の終点・京都やその途中の伊勢へ行くにはここで南へ向かうんです」

1790年に建てられた道標が当時の街道のつながりを示している
  • 道標の向かい側にあるほうろく地蔵。もとは源太夫社という神社があった場所で、戦災で焼けた後に熱田神宮内に移されて上知我麻神社になっている
  • 通り名の看板やレトロな街灯の連続が昭和の商店街の名残を感じさせる
今も港の雰囲気は残っている
「宮の渡し公園」として整備されている七里の渡し

この「七里の渡し」こそ、東海道唯一の海路の港。熱田~桑名間の七里(約27・5km)をここから船に乗って行き来していたのです。地図をあらためると陸路でもさほど距離は変わらないように見えますが、ここで旅人の行く手を阻んでいたのが木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)です。濃尾平野は東側の南アルプスの隆起を西側の養老断層がせき止めることで西側へ傾いていて、そのため木曽三川は西側へ偏っています。東側に位置する熱田は、川が少なく砂が堆積しにくい場所となり、尾張の台地の中でも港の適所となったというわけです。一方で、木曽三川周辺は水害にあいやすく、それを避けて海路をとることにしたのです。

  • 熱田の宿は約250もの旅籠がある日本最大級の宿場町だった
  • 左の「尾張名所図絵」に描かれた佇まいのまま今も残る「丹羽家住宅」

さらに古地図と現在の区割りを照らし合わせて歩いていくと、熱田の港町としての繁栄が浮かび上がって来ると言います。

「海の方から熱田神宮へ向かって少し上がっている東海道の高低差から、かつては海岸線が今よりも北にあったことがうかがえます。それより海に近い側は家康の時代の前後に埋め立てて造られた土地なんです」

そして、この埋め立てられてできた土地を歩くと当時の町の様子がよみがえってきます。ヒントは信号にも残る「大瀬子」という地名にありました。

「瀬子というのは細い道を指す伊勢や尾張特有の呼び方です。実際に細い通りが何本も並行して通っていて、間口の狭い住宅がびっしり連なっていますよね。埋め立てて作った限られた土地にたくさんの家を作ろうとした、つまりそれだけこの港が発展していた証拠なんです。また、一本一本の瀬子の突き当りにそれぞれ火除けのための秋葉神社の社があるのも面白いところ。土地が狭いため、浜の方へ社を置いたのでしょう」

  • 間口が狭い民家が連なり、往時は人口密集地だったことが分かる
  • 細い“瀬子”の両側に並ぶ民家群。突き当りには秋葉山系の神社が必ずある

家康は名古屋を経済都市として発展させるために、熱田港をその拠点に位置づけて町のグランドデザインを描きました。古代から人と物の行き来が盛んだった熱田港はうってつけの場所だったのです。

しかし、ここでひとつ疑問が浮かびます。そんなにポテンシャルの高い港町を擁していたにもかかわらず、なぜ家康以前には、尾張の台地がこの地域の中心にならなかったのでしょう? 今度は地図の細部ではなく、俯瞰して広く見てみます。すると、今度はその問題点が明らかに・・・。

「そう。名古屋城がある台地の北端と、熱田のある南端では距離がありすぎるんです」

両者間は直線距離で約7km。熱田港に集まった荷役を運ぶには少々遠いのです。しかし、この距離を克服したからこそ、名古屋の町を築くことができたということ。家康は果たしてどんな策をとったのでしょうか? 「その答えもこの熱田の港にあるんです」と山村さんが指さしたのは港湾の右側。パッと見ただけでは幅が広すぎて分かりませんが・・・?
「堀川の河口です。堀川はここから名古屋城まで続く人工の川。家康は川を開削して熱田港と名古屋城を結ぶことで、名古屋の経済都市としての発展を可能にしたんです」

昔も今も町づくりの基礎となるのは土木の技術というわけです。では、堀川はどのように開発され、名古屋の町づくりにどんな役割を果たしたのか。上流まで上って確認することにします。

香ばしさに誘われてひつまぶしでスタミナ補給

堀川へ向かう前に、熱田に来たらやっぱりここは外せません。お昼ご飯は「あつた蓬莱軒」の名物、ひつまぶしです。先ほどお店の前を通った時から、香ばしいにおいに食欲を刺激されていました。うなぎでスタミナをつけて、町歩きの後半戦にのぞみます。

堀川

名古屋に経済発展をもたらした人工の水運ルート

やってきたのは五条橋のたもと。ここでもまずは高低差に注目します。

「西側の円頓寺商店街の入口から、堀川に架かる五条橋を望みます。名古屋城のある東側へ向かって上り坂になっているのが分かりますよね。つまり堀川は台地のへり近くを通っていることになります」

堀川に架かる五条橋。四隅に石の階段やスロープがあり、荷上場だったことが分かる

続いては堀川と並行する通り、四間道(しけみち)へ。この界隈では町屋の屋根の上などに神様を祀る小さな社が見られます。
「尾張特有の屋根神様です。熱田では瀬子の突き当りに神社をまつっていましたが、このあたりでは屋根の上に神社をつくったんです。住宅が密集してスペースがないことを解消する方法が、土地によって異なるのが面白いですね」

目線を下へ戻して、地面と建物の高低差に目をやります。

「地面から1・5mの高さに石垣が積まれ、その上に蔵が建っています。しかも、ずっと同じ高さでこれが続いています。これは対岸の高さに合わせるため。西方面へはここからさらに下り斜面になっています。つまり、堀川は台地の斜面が下りきったへりではなく、その少し手前にあたる斜面の途中を通っているということです」

  • 円頓寺商店街側から五条橋を望むと名古屋城方面へ向かって上り坂になっていることが分かる
  • 四間道界隈に点在する「屋根神様」

なぜこの位置に川を通したのか? あらためて堀川の構造を思い出してみます。

「先ほど熱田で見てきた通り、堀川は港と城を結ぶために開削されました。現在も堀川は名古屋港の管轄で、すなわち海の一部なんです。ということは潮の満ち引きで水面が上下する。台地のへりに川を通すと、満潮の影響を受けて増水した際に地面が低い方が水浸しになってしまうため、少し高い場所を選んで川を通したのだと考えられます」

さて、経済政策としての堀川開削を考える場合、重要なのはここからです。家康は堀川をどんな風に活用したのでしょうか。そのヒントは川の東岸と古地図にあるそう。そこで、川沿いにあるカフェの店内にお邪魔することに。地下へと向かう階段の途中でふり返ると、そこには驚きの光景が・・・! 何と階段の裏に石垣があるのです。ここは古い蔵を改造した店舗だったのです。そして、地下のフロアから外を望むと、床面のすぐ下に堀川の川面が見えます。古地図で確認すると、この地下フロア部分は「カシ」と記されています。川沿いに続く「カシ」とは一体・・・?

「河岸、つまり荷役場のことです。店の中に残る石垣まで川があったのではなく、川と石垣の間に積み荷を下ろすスペースがあったんです」

では、この荷役場に下ろされていたものは何だったのか? ここにまさしく家康の経済戦略の秘密を解く鍵があるのだとか。それは果たして・・・?

「木材です。それも木曽のヒノキ。家康は木曽を直轄地として尾張藩に与え、名古屋は良質の木材の集積地となりました。ヒノキは名古屋城や城下町を築くのに使われ、さらに全国各地へと送られ、名古屋の経済発展の基盤となったのです」

江戸時代、名古屋は豊富な木材を活かして尾張仏壇や尾張箪笥などの木工業が盛んで、この地域特有の山車からくりも木工技術から発展して花開きました。家康は戦乱の世を終わらせることを使命とし、その後に来る平和な時代にまで思いをはせながら経済都市・名古屋の設計図を描いたのでしょう。そういう意味で、家康にとって名古屋は理想の近未来都市だったと言えるのかもしれません。

カフェ&ギャラリー「ブランカ」は堀川沿いに今も残る材木商「沖正商店」が経営する。中央は社主の児玉正信さん
  • カフェの階段の裏に石垣が残っている

「どんな町も長い歴史の積み重ねがあるから今がある。その痕跡は地形などあちこちにパズルのピースとして残っています。名古屋城、城下町、熱田神宮、七里の渡し、堀川・・・。“残り(保存状態)のよいもの”だけに関心が行きがちですが、それらのピースを点として見るだけでなく面でつないでいくと、町や歴史の全体像が見えてきます」と山村さん。

「ブラナゴヤ」シリーズで歩いた場所はそれぞれ家康の町づくりの構想で有機的につながっていて、その上に今の名古屋の都市が築かれている。山村さんの視点は、町歩きのより立体的な楽しみ方を提示してくれます。ピースとピースを結びつけ、町づくりの成り立ちやその背景にある思想にまで思いをはせる。そんなことを意識しながら、名古屋の町を思う存分ブラブラしてみてははいかがでしょうか。

PROFILE

Aki Yamamura

京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。歴史地理学専攻。広島県三次市出身。京都大学大学院卒業後、愛知県立大学歴史文化学科に11年間勤務し、2015年に京都大学に赴任。名古屋時代は名古屋城、熱田神宮、堀川などを研究対象に積極的にフィールドワークを行う。著書に『地図で読み解く中近世の港町熱田』『中世都市の空間構造』などがある。好きな名古屋めしは手羽先とういろう。